動詞の中には、言い回しがビミョウに違って、意味は全然違う言葉があります。
そのうちのひとつに、「見る」と「見つめる」という動詞があります。
どちらも見る動作ですが、言い回しが変われば意味も変化するのが言葉というものです。
そこで今回は、「見る」と「見つめる」の違いについてしっかり解説していきます。
結論:意思を伴うかどうかで使い分けられる
どちらも視覚によって対象を捉えることを表しますが、「見る」は意思の有無が関係ないのに対し、「見つめる」は意思がある場合に使われます。
そこで、例文を使って、意思を伴う視覚動作と伴わない視覚動作がどういうものなのかみていきながら、「見る」と「見つめる」の違いについて解説していきます。
「見る」をもっと詳しく
「見る」は、意識的・無意識的かどうかに関わらず視界に入ってきたものを認識することです。
意識的というのは、たとえば「私は、彼が恋人を振るのを見た」という場合などです。
この場合、『私』の視覚は意識的に彼と恋人のやりとりを認識しているので、「見る」動作をしたといえます。
一方、無意識的は「彼は、目の前をきれいな蝶が飛んでいくのを見た」という場合などです。
この場合、『彼』は意識的に蝶を見たわけではありませんが、視覚的に蝶を認識しているので「見た」と表現することができます。
このように、「見る」という動詞は意識的なのかそうでないのかに関わらず使うことができます。
「見つめる」をもっと詳しく
「見つめる」は、視覚によって意識的かつある一定時間対象を捉えることです。
意識的かどうかや時間的制約を加味しない「見る」とは異なるのは、常にそれが意識的に、かつ長時間継続される視覚動作である点です。
たとえば、「母親は愛しそうに子どもの顔を見つめた」という文章の場合、「見つめた」という表現を使うことによって、『母親』がしばらく子どもに視線を集中させていることがうかがえます。
「彼女は僕をじっと見つめた」という場合にも、『彼女』が一定の間『僕』だけに意識を集中させていいることがわかります。
もしもこのふたつの文章を、それぞれ「母親は愛しそうに子どもの顔を見た」「彼女は僕をじっと見た」とします。
どちらも日本語として意味は通じますが、ニュアンスは若干違います。
「母親は愛しそうに子どもの顔を見た」とすると、『母親』は一瞬しか子どもに視線を向けなかったと捉えることができ、「見つめた」で読み手が受けることのできた時間的な意味合いは失われてしまいます。
それだけではなく、「見た」と表現を変えることで、「愛しそうに」という副詞の持つ意味も軽く感じられます。
一方、「彼女は僕をじっと見た」の場合には、より文章の印象は変わってしまいます。
「じっと見つめた」という表現からは、『彼女』の『僕』に対する愛情や詩的な雰囲気が感じられますが、「見た」に直した後は、『彼女』の喜怒哀楽を読み取ることができないだけではなく、詩的な雰囲気も半減してしまいます。
このように、「見つめる」という動詞は、意識的に何かを捉えるという意味だけでなく、ポジティブなニュアンスも含んでいるのです。
まとめ
以上、今回は「見る」と「見つめる」の違いについて解説しました。
- 見る:意識的・無意識的かどうかに関わらず視界に入ってきたものを認識すること
- 見つめる:視覚によって意識的かつある一定時間対象を捉えること
「見る」と「見つめる」を使い分けることで、文章の印章はまったく変わります。
あなたもふたつも使い分けて、文章にいろいろな表情を持たせてみてください。