よく聞く忍者!「伊賀忍者」と「甲賀忍者」の違い

違いのギモン

最近、世界から日本の文化が注目されていますよね。

例えば、寿司を代表とする和食、アニメなどのサブカルチャー、日本酒などは外国人に人気です。

また、海外の人には忍者も人気です。

 

海外の人の忍者好きはすごく、日本には今でも忍者がいると思っている人もいるくらいです。

実際にいるかどうかは置いておいて、忍者が注目されていることに間違いはありません。

そして、外国人は日本人が日本文化に詳しいと思っていますから、忍者について外国人に聞かれることもあるかもしれません。

そんな時に答えられないと日本人として恥ずかしいですよね。

 

例えば、みなさんの中には、「伊賀忍者」と「甲賀(こうか)忍者」の違いを知らない人も多いのではないでしょうか。

そこで、今回は「伊賀忍者」と「甲賀忍者」の違いについて解説していきたいと思います。

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結論:対極的な存在

まず、「伊賀忍者」は現在の三重県伊賀市と名張(なばり)市に拠点があった忍者の流派で、複数の依頼人とビジネスライクな関係を築いていました。

一方、「甲賀忍者」は現在の滋賀県甲賀市と湖南(こなん)市に拠点があった忍者の流派で、1人の主君に仕えていました。

つまり、「伊賀忍者」と「甲賀忍者」は対極的な存在なのです。

「伊賀忍者」をもっと詳しく

伊賀忍者は現在の三重県伊賀市と名張(なばり)市に拠点があった忍者の流派で、複数の依頼人とビジネスライクな関係を築いていました。

そして、伊賀忍者は共同体によって組織運営を行っていましたが、意思決定は「上忍三家」と呼ばれる3つの有力家系の意向が大きく反映されていたと言われています。

ちなみに、上忍三家とは、服部(はっとり)家、百地(ももち)家、藤林(ふじばやし)家の3家です。

 

このうち、服部家は服部半蔵(はっとりはんぞう)を輩出した家として有名です。服部半蔵は忍者の中では一番有名な人物ですよね。

また、百地家は百地三太夫(ももちさんだゆう)を輩出したことで知られています。

ちなみに、百地三太夫は織田信長に抵抗したことで有名です。

 

また、藤林家は藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)を輩出しました。

彼は信玄の軍師であった山本勘助に忍術を教えたことで有名です。

そして、これ以外の家は三家の意見を聞き入れることが多かったと言われています。

 

そして、伊賀忍者は依頼があれば複数の大名に対しても忍びのものを派遣していました。

戦などで双方から要請があった場合は、両方の依頼に答えていたと言われています。

そのため、伊賀忍者同士で戦うこともあったようです。

そして、伊賀忍者は依頼主と金銭以上の関係になることはありませんでした。

よって、伊賀忍者は傭兵に似ていると言えるでしょう。

 

そして、伊賀忍者の忍術は、私たちが想像するものに比較的近めです。

例えば、伊賀忍者の得意技の1つとして、火遁の術があげられます。

火遁の術は、敵に追われている時などに火薬玉を使って自身の姿を隠すために使われました。

ちなみに、火遁の術を好んで使っていたのは、伊賀という場所は火薬が入手しやすく、火薬の調合に精通していたからだと言われています。

ほかにも、伊賀忍者は火矢、のろしなどを好んで使っていました。

 

また、伊賀忍者は催眠術や手品を含む呪術なども得意でした。

これは、伊賀が山に囲まれた盆地であり、亡命者が多かったことが影響していると言われています。

例えば、伊賀忍者は両手で印を結んで精神統一を行う「九字護身法(くじごしんぼう)」などを用いていました。

 

ちなみに、伊賀忍者は織田信長とは険悪な関係だったと言われています。

そして、実際に「天正伊賀の乱」(てんしょういがのらん)で信長と2度にわたって争いました。

ちなみに、1度目は伊賀が奇襲に成功し、織田軍を敗走させましたが、2度目は多くの軍勢の前に大敗し、里は壊滅状態になりました。

しかし、これより伊賀忍者が滅びたわけではなく、多くの指揮官はうまく逃げ延びていたと言われています。

ちなみに、伊賀忍者は2度とも内通者によって痛い目を見たため、忍者をやめて里から出る抜け忍は厳しく取り締まっていたと言われています。

 

また、徳川家との関係は良好であったと言われています。

そして、そのきっかけは服部半蔵が作ったようです。

本能寺の変のあと、堺にいた家康は服部半蔵に守られて三河国(みかわのくに)に戻ったのです。

この功績により、伊賀忍者は徳川家に仕えていくことになります。

例えば、島原の乱やペリーが来航した時などには偵察を行いました。

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「甲賀忍者」をもっと詳しく

甲賀忍者は現在の滋賀県甲賀市と湖南(こなん)市に拠点があった忍者の流派で、1人の主君に仕えていました。

ちなみに、「甲賀」はよく「こうが」と読まれますが、これは誤読で、正確には「こうか」です。

 

そして、甲賀忍者は「惣(そう)」と呼ばれる共同体を作り、そこに参加する人の立場は対等であったと言われています。

例えば、里として意思決定を行う時も、多数決により意思決定を行っており、民主主義的でした。

そして、伊賀忍者とは対照的に、依頼主は特定の家にしぼり、特定の主君に仕えていました。

 

例えば、甲賀はもともと佐々木六角氏の配下にありました。

しかし、特定の大名と運命を共にすることはなく、仕える大名が没落すると仕える主をコロコロと変えていきました。

甲賀忍者は佐々木六角氏が没落すると、織田氏、豊臣氏、徳川氏の順番で主君を変えていったのです。

 

ちなみに、甲賀忍者は医療や薬に精通していました。

そして、普段の生活ではお守りや薬を売り歩くことで諜報活動を行っていたのです。

そのためか、現在でも甲賀市には製薬会社が多くあります。

 

ちなみに、秀吉に仕えていた時代に家康を監視する任務を与えられていたため、伊賀忍者と戦うことが多くなりました。

なぜなら、当時すでに伊賀忍者は徳川の配下に入っており、監視を嫌った家康は監視する者の排除を命じたからです。

このことから、伊賀忍者と甲賀忍者は対立関係にあったと考えている人が多いようです。

ただ、伊賀と甲賀は基本的には友好な関係を保っていたようです。

同業者として、争いあわないほうが利益があると考えていたのでしょう。

 

ちなみに、甲賀忍者は江戸時代になると不遇な扱いを受けるようになります。

生活も苦しくなり、武士身分を獲得する嘆願を行ったこともありましたが、認められることはありませんでした。

そのため、幕末になると新政府軍に加わり、戊辰(ぼしん)戦争では庄内(しょうない)藩との戦いなどで戦果をあげました。

 

ちなみに、甲賀忍者が得意だったのは毒薬を使った術と、手妻(てづま)であったと言われています。

このうち、手妻とは、手品のようにすばやく手を動かして人心をまどわす術です。

まとめ

以上、この記事では、「伊賀忍者」と「甲賀忍者」の違いについて解説しました。

  • 伊賀忍者:複数の依頼人とビジネスライクな関係を築いていた
  • 甲賀忍者:1人の主君に仕えていた

「伊賀忍者」と「甲賀忍者」にはさまざまな違いがあったんですね。

これらの違いを外国人に解説できたら、きっと喜んでくれることでしょう。

また、友達などに話してみるのもいいかもしれません。

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