「民主主義」と「ポピュリズム」の違いとは?わかりやすく解説

違いのギモン

みなさんは「民主主義」と「ポピュリズム」の違いについてご存知でしょうか。

新聞やテレビといった報道の中でも、「ポピュリズム」という言葉を聞く機会がここ何年かで増えているように感じます。

「『民主主義』はなんとなく分かるけれど、『ポピュリズム』はよくわからない」と思う方も多いのではないでしょうか。

今回はそんな、ニュースを読み解くためには必須である「民主主義」と「ポピュリズム」の違いについて詳しく解説します。

結論:理性的な議論の有無が違う

「自分たちのことは自分たちの手で決定するべきだ」という理念の下、理性的に議論をし、よりよい案を探していくような政治的な考え方のことを「民主主義」と呼びます。

それに対し、理性的な議論を行わず、「人気取り」的な手法に終始するような政治的な姿勢のことを「ポピュリズム」と呼びます

「ポピュリズム」の辞書的な意味としては「一般市民の声をもっと政治に反映させるべきだ」という主張のことを指しますが、ここ数年では「人気取りに終始する政治的な姿勢」を批判するニュアンスで用いられることが一般的となっています。

「民主主義」についてもっと詳しく

「民主主義」とは

「民主主義」とは、「自分たちのことは自分たちの手で決定しよう」という考え方のことを指します。

「主義」とは「継続的に持っている思想上の立場」という意味であり、「民主」は「民(たみ)が主(あるじ)」であると書くことから、「民主主義」とは「一般市民が主である」というものであることがわかります。

「民主主義」的な国家では、一般市民が政治に参加することができます。

つまり、「独裁」の正反対の状況を表す言葉が、「民主主義」という言葉であるということです。

「民主主義」はどのようにして誕生したのか

現在、世界のほとんどの国家が、民主主義的な物事の決め方をしています。

つまり、支配者1人が勝手に決定するのではなく、国民、ないしは国民の代表者が話し合い、物事を決定しているということです。

しかし、このような物事の決め方は、なにも人類普遍のものということではなく、ここ数百年で誕生した、とても近代的なものです。

 

では、「民主主義」が生まれる前はどのような仕組みによって物事が決定されていたのでしょうか。

それは、「君主制」や「王政」といったような、君主や王様、貴族といった限られた身分の人間だけが政治に参加し、一般市民は政治に参加することができない政治の仕組みでした。

一般市民は政治に介入することができず、王様や貴族が決めたことに対して従うしかありませんでした。

 

一般市民は政治的な空間での発言権がないため、王様や貴族は一般市民に対してやりたい放題です。

王様や貴族は一般市民に重い税金をかけたり、気に入らない人間を処刑したり、信じる宗教を強制させたりするといった一般市民の権利を無視した行いをしていました。

しかし、一般市民は政治に参加することができないため、このような仕打ちを受けたり、政治が暴走することがあっても止める術や反論する術がありません。

そういった状況の中で、一般市民は政治への不満がどんどんたまっていきます。

 

その不満が爆発し、革命が起き、「君主制」や「王政」が打倒されました。

「君主制」や「王政」を打倒したあとの一般市民たちは、もう二度と、権力者が暴走したり、一般市民の権利を無視することがないように新たな政治の仕組みを模索しました。

そうして作り上げられたのが、一般市民が主体的に政治に参加し、物事を決定していく、「民主主義」という考え方です。

「直接民主主義」と「間接民主主義」

「民主主義」では、一般市民が政治に参加し、物事の決定に関与します。

「君主制」や「王政」では、一般市民の声が政治に反映されないことが問題でした。

つまり、その反省から生まれた「民主主義」は、一般市民の声を政治に反映させることを目標とします。

 

しかし、もし、1億人の一般市民がいたとして、その1億人全員の声を聴いて、1つの合意を作ることは至難の技です。

人数が多すぎるからです。

民主主義は確かに、一般市民に政治に参加させ、その意見を政治に反映させることを目標としますが、それを大規模の国家で実施することは現実的ではありません。

そういった現実的な問題との折り合いのなかで、「間接民主主義」という考え方が誕生します。

 

これは「一般市民全員で話し合い、1つの合意を作り上げることは大変だから、一般市民の中から代表者を選び出し、その代表者の中で話し合いをし、物事を決定しよう」という考え方です。

現在、世界で民主主義的な政治の仕組みを持つ国のほとんどでは、基本的には間接民主主義的な物事の決め方をしています。

「選挙」は、一般市民の中から代表者を選出するための、「間接民主主義」の典型的な制度です。

 

「間接民主主義」は他には「議会制民主主義」「代表民主主義」「代議制民主主義」などとも呼ばれます。

「間接民主主義」とは反対に、代表者を選出せず、一般市民全員で話し合い、決めごとをする制度のことを「直接民主主義」といいます。

 

「民主主義」の理想としては「直接民主主義」的な仕組みを取るべきなのですが、現実的な問題との折り合いのなかで、多くの国では「間接民主主義」的な仕組みを主に採用しているということです。

しかし、「間接民主主義」的な制度と「直接民主主義」的な制度を組み合わせている国も多く存在します。

 

日本を例にとると、普段は選挙によって選ばれた代表者が話し合い、決めごとを行う「間接民主主義」的な仕組みですが、憲法改正といった重要な議題においては一般市民である国民全員が参加する「国民投票」という「直接民主主義」的な仕組みを採ります。

効率よく議論を進めなくてはいけない場面では「間接民主主義」的な仕組みを用い、しっかりと国民全員の意見を聞かなければいけないような場面では「直接民主主義」的な仕組みを用いるといったように、場面に合わせて使い分けを行っているということです。

「民主主義」と「多数決原理」

「民主主義」では「多数決原理」と呼ばれるものを基本的に採用しています。

「多数決原理」とは、集団の中で決めごとをする際にその集団の中で最も多い意見をその集団の意見とする考え方のことです。

この「多数決原理」は「民主主義」の制度の中で、決めごとをする際に用いられる考え方です。

 

なぜ、「民主主主義」における決定では、「多数決原理」が用いられるのでしょうか。

「民主主義」は、王様や貴族が、一般市民を無視して決めごとをしてしまう反省から生まれたことから、特定の誰かが強い力を持って他人の意見を無視してしまうような状況を嫌います。

そのため、「民主主義」の制度においては、少数の権力者がなにか物事を勝手に決定してしまうような事態を極力、発生させないようになっています。

つまり、何かを決定していくなかで、議論が難航したときに、英断する権力者が「民主主義」の制度においては基本的には存在しないのです。

 

「議論が難航していて決着がつきそうにないが、民主主義には権力者が存在しないため、決定ができない」という状況において、決断を下すために用いられるのが「多数決」という手段です。

民主主義には「英断する権力者」が存在しないために、「多数決」という決定の手段が存在しています。

つまり、「多数決」とは絶対の力を持つ手段ではなく、あくまでも議論が難航した際、素早く物事を決定するために存在する妥協としての手段に過ぎないということです。

 

「民主主義」の制度において、決めごとをする際に用いられている「多数決原理」ですが、これには問題点があります。

それは、「多数派」の意見が、「少数派」の意見を無視してしまいかねないという点です。

つまり、「多数派」がかつての王様や貴族のような「一般市民の声を無視する権力者」になってしまうということです。

もともと、「無視される一般市民がでないように」ということでスタートした「民主主義」が、「少数派」という一般市民の声を無視してしまっては本末転倒です。

 

「多数決」は手段にしか過ぎず、絶対ではありません。

理性的に議論をし、多数派だけではなく、少数派も満足できるような決定案を模索していくことが、「民主主義」には必要です。

そうでなくては、「無視される一般市民」が出てきてしまい、「自分たちのことは自分たちの手で決定するべきだ」という「民主主義」の原則に反することになってしまうからです。

「ポピュリズム」についてもっと詳しく


ポピュリズムは複数の側面を持っています。

元々、「ポピュリズム」という言葉は否定的な意味合いでばかり用いられる言葉ではありませんでしたが、ここ数年では「ポピュリズム」という言葉は、否定的な文脈の中で、かつ批判的な意味を込めて用いられることが一般的となっています。

 

「ポピュリズム」はラテン語の「ポプルス」に語源があり、「ポプルス」は日本語で「人民」や「民衆」というような意味があります。

そして「○○イズム」とは、日本語で「○○主義」と訳すため、「ポピュリズム」は直訳すれば、「人民主義」や「民衆主義」といったものになります。

それに加え、「ポピュリズム」を否定的なニュアンスで用いる場合には、「大衆迎合主義(たいしゅうげいごうしゅぎ)」と意訳されることもあります。

「迎合」とは、自分の考えや信念を曲げてでも、他人に気に入られるような態度をとることを意味する言葉です。

 

「ポピュリズム」には多様な解釈が存在しており、日本語訳を1つに絞ることはできません。

そのため、「ポピュリズム」は新聞やテレビで用いられる際には、あえて日本語訳されず、「ポピュリズム」とそのまま記されることが一般的となっています。

 

「ポピュリズム」を「人民主義」と訳しても、「大衆迎合主義」と訳しても、どちらにせよ、「ポピュリズム」という思想の中心となるのは「一般市民」です。

先ほど説明したように、民主主義は「自分たちのことは自分たちのことで決めるべきだ」という考えの下に誕生しました。しかし、その社会を構成する「一般市民」全員で話し合い、物事を決定することは現実的ではないため、ほとんどの国家では「間接民主主義」的な制度を採用しています。

「間接民主主義」的な制度では、一般市民の中から選挙によって代表者を選出し、その代表者が話し合い、物事を決定します。

この代表者たちは、確かに「一般市民」の中から選出されているため、「一般市民」の中の1人だと捉えることもできますが、現実にはその解釈は異なっています。

 

実際に国会議員等になり政治に参加している人のほとんどは、およそ「一般市民」と呼ぶことには違和感のある人ばかりです。

それは「元弁護士」「元代議士」「元大学教授」「議員の子ども」「超一流大学の出身」「元会社経営者」「タレント」といった人々です。

このような人々は「一般市民」というよりも、むしろ「エリート」と呼んだ方が妥当でしょう。

 

王様や貴族などの一部の人間が政治を独占することを嫌い、一般市民が政治に参加できるようにするために生まれたのが「民主主義」という考え方でした。

しかし、現実の「民主主義」においては一部の「エリート」が政治を独占している傾向が相当に強く、「一般市民」が政治に参加することは困難を極めます。

つまり、本来の「民主主義」とのズレが生じてしまっているのです。

 

「ポピュリズム」はこういった「ズレ」を痛烈に批判する考え方です。

「反・エリート」や「反・既得権益(きとくけんえき)」を掲げ、「一般市民の手に政治を取り戻せ」というような主張を「ポピュリスト」(ポピュリズム的活動をする人)は繰り返します。

「既得権益」とは、特定の層の人間が独占し続けている利益のことを指し、これには「政治」とそれに伴う利権が挙げられます。

 

この考え方自体は至極まっとうなものです。

「一般市民が政治に参加し、自分たちのことは自分たちで決定する」という民主主義の理念に適ったものであるからです。

これが、辞書的な「ポピュリズム」の考え方です。

 

しかし、「ポピュリズム」が否定的なニュアンスで、つまり「大衆迎合主義」というニュアンスで用いられる場合には、事情が異なります。

「現状のエリートが政治を独占している状況を脱し、一般市民の声をもっと聞くべきだ」という主張は変わりませんが、その手法が問題視されているのです。

先ほど説明したように、「迎合」とは「自分の考えや信念を曲げてでも、他人に気に入られるような態度をとること」を意味します。

つまり、「大衆迎合主義的な政治家」と言った場合には「大衆に気に入られるように、自分の考えや信念を曲げる政治家」ということになります。

 

ポピュリズム的だと批判される政治家は、大衆に気に入られ、選挙で勝利し、権力を手にするためにどんなことでもします。

人気を獲得するために、およそ実現不可能な政策を提案したり、過激な発言(例えば人種差別的な発言)をしたり、口汚く対抗勢力を罵ったりすることも厭(いと)いません。

政治とは対立が起こらないように調整し、人々ができる限り幸福に暮らしていくために存在しているものであるため、このようなポピュリズム的な手法は社会全体にとって望ましいものとは言い難いでしょう。

 

また、ポピュリズムと非難される政治家は「マイノリティ」(社会的少数派)の存在を無視する傾向にあります。

なぜなら、そもそもの人数が少なく、発言力も弱いため、自身の人気を増長させることに役立たないからです。

それよりもむしろ、「マジョリティ」(社会的多数派)からの評判が良くなるような言動をしたほうが、人気を獲得するためには効果的です。

 

ポピュリストは「マジョリティ」からの支持を得るために、しばしば「マイノリティ」を攻撃します。

「マジョリティ」が抱える社会への不安や不満を、「マイノリティ」を攻撃させることで解消させているのです。

 

おさらいすると、ほとんどの国家では、何かを決定する際には、「多数決」を用います。

しかし、「多数決」とは、仕方なく使う手段に過ぎず、絶対の説得力を持つものではありませんでしたね。

なぜなら、「少数派」も大事な「一般市民」であり、その「一般市民」の声が完全に無視されるようなことがあれば、それは「民主主義」の理念から外れるものであるからです。

最大限の努力をし、無視される「一般市民」の声がでないように、調整しなくてはいけません。

 

ポピュリズムの「現状のエリートが政治を独占している状況を脱し、一般市民の声をもっと聞くべきだ」という考え自体は、非常に「民主主義」の理念に叶ったものです。

しかし、ポピュリストの言う「一般市民」の中に「マイノリティ」が含まれていない場合には、それを「民主主義」と呼ぶことはできませんし、提案する政策が人気取りのためのもので中身がなかったりすれば、政治が混乱するでしょう。

過激な発言や対抗勢力への罵倒も、不要な軋轢(あつれき)を生み、政治を停滞させる要因となります。

 

一見、非常に「民主主義」的に見える「ポピュリズム」は、政治を混乱させ、破壊するような危険性をもはらんでいるということです。

まとめ

以上、この記事では「民主主義」と「ポピュリズム」の違いについて解説しました。

  • 民主主義:自分たちのことは自分たちで話し合い決定しようという政治の考え方
  • ポピュリズム:「人気取り」に終始する中身のない政治的姿勢

「民主主義」と「ポピュリズム」の違いについて理解することは、ここ数年の世界の流れを把握するうえでとても重要です。

また、日ごろ見るニュースを読み解くための大きな助けにもなるでしょう。