今回ご紹介する言葉は、ことわざの「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)し」です。
言葉の意味・使い方・由来・類義語・英語訳についてわかりやすく解説します。
☆「縁なき衆生は度し難し」をざっくり言うと……
読み方 | 縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)し |
---|---|
意味 | 人の忠告を聞かない者は救いようがないことのたとえ |
由来 | 江戸時代の浮世草子『諸芸袖日記』 |
類義語 | 犬に論語、馬に念仏、牛に経文など |
英語訳 | Even Buddha cannot redeem those who do not believe in him.(信仰心のない者は、たとえブッダであっても救うことはできない。) |
このページの目次
「縁なき衆生は度し難し」の意味をスッキリ理解!
「縁なき衆生は度し難し」の意味を詳しく
「縁」は、仏教徒のつながりを表します。「衆生」は、全ての生き物のことを表します。「度す」は、仏が悟りの境地に導くという意味です。
つまり、これを現代語訳すると、「すべての生物に慈悲深い仏であっても、仏の教えを聞く機会がない者、信じようとしない者は救うことができない」となります。
これが転じて、「人の忠告を聞かない者は救いようがない」ということのたとえになりました。
「縁なき衆生は度し難し」の使い方
- 彼は自分の意見を全く変えたくない性格だから、縁なき衆生は度し難しだよ。
- 縁なき衆生は度し難しといったところか、彼女の強情さに説得することを諦めてしまった。
- 縁なき衆生は度し難しであるから、人の意見にはしっかりと耳を傾け、考慮すべきだ。
③の例文では、人の助言を取り入れれば、よりよくなれる余地があることを述べています。
「縁なき衆生は度し難し」の由来
「縁なき衆生は度し難し」は、1743年に書かれた浮世草子の『諸芸袖日記(しょげいそでにっき)』に由来しています。
浮世草子とは、江戸時代の関西地方で盛んになった、町人階級の世の中のありさまや人情を書いた小説のことです。
「縁なき衆生は度し難し」の考え方は、法華経(ほけきょう)の方便品(ほうべんほん)の中に見つけることができます。方便品とは、法華経二十八章の第二にあたる経文のことです。
ここでは、「仏の知恵はとても理解が難しいので、たくさん努力をしないと悟ることはできない。したがって、仏を信じて精進しよう」という内容が述べられています。
「縁なき衆生は度し難し」の類義語
「縁なき衆生は度し難し」には以下のような類義語があります。
「縁なき衆生は度し難し」の英語訳
「縁なき衆生は度し難し」を英語に訳すと、次のような表現になります。
- Even Buddha cannot redeem those who do not believe in him.
(信仰心のない者は、たとえブッダであっても救うことはできない。) - We cannot help obstinate people.
(強情な人を救うことはできない。) - We cannot help those who will not listen to our advice.
(助言に耳を傾けない者を救うことはできない。)
まとめ
以上、この記事では「縁なき衆生は度し難し」について解説しました。
読み方 | 縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)し |
---|---|
意味 | 人の忠告を聞かない者は救いようがないことのたとえ |
由来 | 江戸時代の浮世草子『諸芸袖日記』 |
類義語 | 犬に論語、馬に念仏、牛に経文など |
英語訳 | Even Buddha cannot redeem those who do not believe in him.(信仰心のない者は、たとえブッダであっても救うことはできない。) |
私達は日々周囲の人から影響を受け、助けられながら成長しています。
自分の意見だけが正しいと決めつけないように、気をつけたいですね。